2024年8月、新宿連絡会が結成されてから30年の節目を迎えます。

この特設サイトは30周年を記念して、昔の懐かしき資料や写真を順次公開し、私達の30年の足跡を辿りたいと思います。


連絡会前史  「路上から撃て」

 30数年前と言えば、バブルが崩壊し日雇労働者の街「寄せ場」を中心に、失業を理由にした野宿生活を余儀なくされた労働者が増え始めた頃。東京も山谷地域、上野、浅草、そして全国一の繁華街がある新宿でもその波は一挙に広がった。まだ「ホームレス」と云う言葉が一般的でなかった頃、山谷の地で日雇労働運動を地道に続けていた活動家達は、その変化にいち早く反応。社会の一大事との認識のもと、「人民パトロール班」を組織し、それまでの山谷地域のみならず、上野、浅草、池袋、高田馬場、新宿、澁谷地区にパトロールに赴くこととなった。その報告がこちらのパンフレット。
 1993年(平成5年)の山谷越年越冬闘争終了後に発行。 31年前の92-93越年期、新宿では西口広場、4号街路、中央公園を中心に300名近い路上生活者が確認されている。 その頃、毎晩のよう各所にパトロールに赴いていたが、新宿で受けた「衝撃」と云うのは今でも鮮明に覚えている。山谷の街中で、自ら日雇労働に従事しながら、仲間を組織し、組合のたたかいも続けて来た視点からは、まるで異質に見えるな世界。開けっ広げな近代的な街中でのコンクリートの上での路上生活。
この「衝撃」と「疑問」から 新宿独自のたたかいは始まったのだと思う。
 このパンフの各報告に通底しているのは「労務支配」をいかにして打ち破るのかと云う、きわめて労働運動的な視点で、この問題を解明しようと試みている。今読み返してみると、 大変懐かしく、そして、まだ若き硬直さ(人パト班の面々は当時皆20代)を残していて、それもまた面白い。

 日雇労働者、寄せ場労働者、飯場労働者の「棄民化」に迫る貴重なドキュメントでもある。

 

  続く


 古い写真を整理していたら、上のような一枚の写真が出て来た。1993年7月、山谷の労働者福祉会館前から人民パトロールが出発する時のスナップ写真である。
その活動の主体となるのは寄せ場で働く日雇労働者。大きなずんどうに「おじや」をたんまりと入れ、リヤカー乗っけて、さあ元気よく出発!!。悲壮感は何もなく、「仲間のため」「仲間と共に」を合言葉に、夜遅くまでリヤカー引っ張り、炊き出しを配り、チラシを渡して話を聞いたり、時には酒盛りにつかまり、班員が帰ってこないなんてのもザラであった。
若い組合員や活動家は、そんな中で、鍛えられ、労働問題だけではない、福祉の問題、医療の問題、人生の様々な問題を考えさせらたものだ。

 もう一枚、こんな写真も、

 これは何をしているのかと云えば、城北福祉センター(当時は都山谷室の直轄機関)の宿泊援護を求め、前の日からずらりと並び、そのまま寝込んで朝を迎えた労働者の列である。当時、バブル崩壊後の失業問題は、寄せ場ではそんな状況になっていた。 仕事がない労働者は、炊き出しや援護を求め、どこも行列。

 他方、当時、外国人労働者 とりわけイラン人出稼ぎ労働者が 集まる場所として上野公園、代々木公園があった。バブル期の労働力不足を補うため、建設業やサービス業で彼、彼女らは働き、休みの時、公園に集まり、情報交換などをするのだが、それが「異様な光景」として社会問題となって行った。
労働組合の立場からすると外国人労働者との連帯と云うのはひとつのテーマであり、小さな労組や市民団体が労働相談やら生活相談も各所で行われるようになった。また、不法滞在問題や、入管問題も注目されることとなった。
 山谷から上野公園へ通うこととなったのもこの頃、そして、原宿駅前で外国人労働者との連帯、排斥を許さないとマイクを握っていたのが、「澁谷・原宿 生命と権利をかちとる会」の若きリーダー見津毅(1995年交通事故で亡くなる)であった。この頃、山谷からは原宿のデモなどにも参加し、連帯を深めていたのが「縁」にもなり、その後の新宿連絡会の形成の一翼を担うこととなる。

 バブル期の絶頂から、一転してバブル崩壊の嵐。外国人労働者や日雇労働者など多くの人々が社会からはみ出され、失業問題がクローズアップされ、そして、仕事がなく野宿を余儀なくされる日雇労働者。住み込みの寮や飯場から出された建設労働者やサービス業の労働者。寄せ場のみならず、都内各所で瞬く間に社会問題になった。

 戦後の「浮浪者問題」が、ほとんど忘れられたこの頃、突如目の前に現れた失業野宿者の群に世間は驚き戸惑うが、「我が我が」の風潮の中、それはやがて「排除」や「排斥」に傾き、行政も政治もそれに追随する。
そして、労働運動や社会運動、そして当事者達は、「それはないだろう」と、世間や行政への反発を強めることとなる。

 最後に当時の浅草の看板。当時はこんな風に思われていたのである(まあ、今も胸の内はそうなのかも知れないが……)。

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 そんな中、新宿駅から都庁に続く4号街路で大規模な「強制排除」、忘れもしない「2.17事件」が発生した。
東京都がこれに踏み切った経緯の詳細は知らされていないが、商店街などで作る「西口振興会」の苦情と云うか、要請と云うか、そんなものも背景の一つであろうが、収容施設「大田田寮」を用意し、新宿区福祉に街頭相談実施も要請し、当日実施し、収容所の移送も行なうと云う、準備周到さで、とても一部局の独断で出来るものではない。なので、東京都が初めて実施した「路上生活者対策」と記録されても良いものであろう。東京都はお膝元の路上生活者を目の敵にし、もはやそれは異常であった。「2.17事件」から2年もの間、1996年1月「動く歩道」建設を名目に物理的に排除するまでの、とにかく徹底した「強制排除策」は目に余るものであったが、都議にせよ、文化人にせよ、それを問題にする人はとても少なかった。メディアにしても「ホームレスVS行政」を面白おかしく報じただけで、まるで見せ物のようであった。

この写真は1994年1月2日の収容施設「大田寮」、当時は山谷対策の越冬施設であったが、この時から「2.17」のため、裏手にプレハブ棟を新設している。この敷地は東京都の土地で、しかもまわりに住民などいない「僻地」なので、好き勝手なことが出来たようである。

「2.17」」がどれだけ衝撃的であったのか、当時の新宿を知らぬ人には実感が沸かぬだろうが、すべてはここから始まった。

 

こちらのレジュメはその後の経緯と抗議文などをまとめたもの。       こちらは「反撃の2.17」と銘打って1年後に抗議集会をした時の基調。

 

1994年3月18日 都庁へ抗議行動

1994年3月18日 都庁内での団体交渉

  使い棄てられた上に、ゴミ扱いされた労働者の怒りは、とても深かった。

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こちらは1994年連絡会結成までの各種要望書やチラシをまとめた資料集。

 

こちらは「新宿闘う仲間の会」のチラシ。

 

新宿の現場では「新宿闘う仲間の会」が10数名程の当事者の核で結成され、諸活動を精力的に担っていた。 チラシは、やられたらやり返していくため、団結を呼びかける「紙の爆弾」である。 当時はとにかくアナログ。がり版はもう廃っていたが、ワープロと手書きで版下作り、そして、当時公民館などにあった「リソグラフ」や高田馬場にあった学生向けの格安コピー点で大量印刷。一回の印刷で1000部ぐらいであったろうか、 そのチラシをもって駅周辺はもとより、公園や周辺部まで、区内のあちこちに出向きパトロール、巡回の日々。 そして当事者の団結をみせつける集会やらデモ、役所への押しかけやら、交渉やらを毎週のよう行なっていた。

その団結力が、 このような集会(新宿駅西口地下広場インフォメーションセンター前)の様子(写真:木暮茂夫)。西口地下を埋め尽くす多くの仲間が結集し、思う存分、その怒りの力を表現した。

 

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 ホームレスが組織だって都庁に抗議をしたのは、1994年3月18日の「都庁抗議行動」が最初のようである。当日のお昼のニュースで実況中継のような報道がされ、そんなこともあり大きく世間を騒がせてしまった。1994年3月18日、テレビ朝日「ザ・ニュースキャスター」の番組を引用。当時の世間の驚きと騒ぎようが良く分かる。

 

 

ちなみに、この後期待すべき何かは起こらず、都庁内福祉局に突入し、現場で団体交渉。抗議、申し入れを行なうも、福祉局は何ら反省もしておらず、その足で建設局に行くも、入り口を「かんぬき」でふさぎ一歩も中に入れぬと云う事態。何の進展もなく、奪われた荷物だけはその後、都庁付近の倉庫から奪還し、この日の行動は終了した。
下の写真が都庁の有名な「かんぬき」。こんな無礼なことを躍起になってするから、後に怒った仲間が窓ガラスをたたき割ったりと、そんなこともあった。

 

 

メディアの報道が多くなったのもこの頃から。もちろんそれ以前から、当時はホームレスと呼ばれていなかったが、「寄せ場」やターミナル駅周辺では野宿を余儀なくされた人々が群をなしていた。バブル崩壊は、建設業、サービス業など末端の労働者の切り捨てから始まった。東京の「寄せ場」山谷の変容をテーマにした番組がこちら。1993年2月21日に放映されたTBS報道特集「さんや冬物語」。それまで取材を受けていなかった「山谷争議団」が珍しく取材を受けた番組。

 

 

ここにあるよう、日雇労働運動は、急激に進む失業(アブレ)の嵐、手配師でさえ仕事がなく、寄せ場から、そして飯場から多くの労働者が各所で大量に野宿する姿にの戸惑いながら、けれど、野宿していても、失業していても、同じ仲間であると、その労働者としての尊厳を最大限尊重しながら、「反失業闘争」の方針を取ることとなった。大阪の寄せ場である釜ケ崎もまた同じ構造であり、「日雇全協」(日雇労働運動の全国組織)も同じく「反失業闘争」の旗を掲げることとなる。「救済運動」とは一線を画した、失業者、野宿者による、失業者、野宿者が生きるためのたたかいが、この前後、大きく発展していた。

 そこへ「新宿の2.17」である。底辺下層労働者の一大失業問題には手をうたないばかりか、仕方がなく野宿をしている場所を狙い撃ちした都庁は、怒りの格好の標的になった。

 日雇労働運動と云うのは意外と堅実なものである。騒ぎたてることだけが目的ではない。どれだけの仲間を組織するのか、そこにとにかく重点を置く。そのため活動家は現場に入る。一緒に野宿をする。彼等の生活の場も一緒に居る。そこで様々な相談に乗り、方向性を見つけ、共に実を取るため、たたかう。代理糾弾みたいな「代行屋」はしない。 とにかく仲間の利害に立脚し、共にである。まあ、そこに力を注ぎ過ぎ、共倒れになるようなことも多々あるが、それもまた修羅の道である。

 新宿闘う仲間の会は「日雇全協新宿支部」と名乗り、全国規模の「反失業闘争」に合流することとなる。その後、新宿連絡会が結成。「屋根と仕事を」をスローガンに、現場での行政闘争、仲間の組織化を続け、そして、それのみならず全国の仲間と共に制度、政策要求運動へ登りつめることになる。

 

当時の新宿闘う仲間の会の寄り合い風景(写真:木暮茂夫)。こんな小さな寄り合いが、やがて大きな渦になる。

 

  続く