鎮魂の旅路


98・2・7〜2・14そしてこれから…  笠井和明


 相内一郎・裕子夫妻、下谷政義さん、中村和幸さん、
 あの火災により、痛ましくも亡くなられた尊い仲間…。我々は慟哭の涙と共に限りなき哀悼の辞を述べる。ここで共に生きてきた仲間を俺らは決して忘れない。そしてここで死んでいったあの日を俺らは決して忘れない。

 四名もの仲間をなくし、多くの仲間を傷つけていった明け方の火柱。

 未だ闘病中の小川孝二さん、あの日の光景が眼にこびりつき、うなされ続けている多くの仲間達。被災された仲間達の一日もはやい回復を俺たちは祈る。

 我々は鎮魂の旅をはじめなければならない。死んで行った仲間を無に帰すのではなく、生き残った一人ひとりの命の中にこれから生かし続けるためにも…。

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 亡くなられた仲間は、「ダンボール村」にいたからこそ今回の不幸な事故に巻き込まれた。
 あたたかく、仲間のつながりがあり、仲間のいたわりの中で過ごせる、生き抜く活力を仲間の力で生みだす拠点の筈だった「ダンボール村」にいたからこそ、あのような悲劇がまちうけていた。
 亡くなられた仲間は、孤独な野たれ死にではなかったものの、それと同様の、いやそれ以上の地獄の中、壮絶な仲間の叫び声と共に、その中で焼け死んで行った。
そんな、そんな考えられない程の辛い思いをさせ、仲間の命を失っていったものこそ、我々の「ダンボール村」だった。
 亡くなられた仲間にとっての「ダンボール村」は、それを思えば、決して生きる希望の村ではなく、明らかに死への旅路を準備する絶望の村だった。

 我々は「ダンボール村」にいくばくかの夢を託した。コミュニティという言葉と共に、そこは自らが作り、自らが育てた町だと言い続けてきた。その言葉は現実の前にもろくも崩れ落ちた。
 言い訳はいくらでも出来る。のうがきはいくらでも言える。意味付与もいくらでも出来る。が、二月七日、我々の目の前で起こった事実は、言葉の空しさをはるかに越えた現実の姿であった。
 四人もの仲間を殺して行った呪われた「ダンボール村」という言葉を、この事実の重みを知るものは一生背負い続けていかなければならないだろう。

 確かにそこには屋根があった。風避けもあった。プライバシーも少なからずあった。倉庫もあった。運動が拠点としてあった。そしてなによりも仲間の関係があった。コミュニティとしての野宿者の集住地として、新宿駅西口地下広場はおそらく他のどこよりも人間らしい関係が存在していた。
 が、そこには決定的に安全がなかった。はかなくもそのことを今回の惨劇は証明した。村としての集合単位としてはあまりにも無防備な姿を「ダンボール村」はさらし続けて来た。悪く言うなれば烏合の衆的なそれである。ひとりぼっちはいやだから、人々は群れる。が、その「後」は?2年もの歳月を費やしながらも我々は群れ、集い、共同で住むことの、「後」には、一貫して無責任であり続けた。火災の恐怖と防衛本能は人々の間には確かにあった。我々も無頓着であり続けた訳では決してない。が、これだけの惨劇を目の当たりにすれば、その防衛心がいかに陳腐であったかを自覚せざるを得ない。あれだけの過密な状態で火の手があがればどれだけ被害が拡大するかを想像する力すら我々には欠けていた。現実の野宿の厳しさと人々の住への希求に規定され、振り回され、ダンボールハウスをただやたらに作り続けて来た我々には。
 そして緊急避難所的な村なれば、まさしく、その「後」の問題、発展の経路こそ指し示さなければならなかったにもかかわらず、我々は現実の自然発生性にこそすべてを託し、何等の意識性すら発揮することなく、現実を現実として放置し続けてきた。過渡期としての「ダンボール村」は固定化され、社会から封じ込められ続け、そこに固執するしか我々には能がなかった。
 翻って思い起こせば西口地下広場「ダンボール村」は、九六年一・二四強制排除事件で四号街路から排除された仲間達がインフォメ前緊急避難所を発展させる過程で形成されてきた「村」である。が、その発展の経路を指し示さず、不法占拠を武器とする運動方向を防衛以外指し示せず、仲間達の現実的な生活過程に運動が即反応する形で、増殖させ、固定化させて続けてきたものこそ、我々の「ダンボール村」であった。それが四号街路コミュニティ以上のものをそこに作りえず、仲間達の関係性を生かしきれずにいた我々の主体的な限界である。
 自然発生性をつなぎとめ、それを根拠に運動を運動たらしめてきた我々は、その運動によって悲劇を自ずから生み出して行った。その責は「ダンボール村」に固執してきた者一人ひとりが等しく負わなければならないだろう。人の死には偶然はない。その死の必然性を探り、見つけ、向き合うことに、人の死の意味がある。

 我々は率直に言おう、新宿連絡会運動が四名もの尊い命を奪って行った。我々が彼・彼女らを殺してしまったのだと。その点について我々は何一つ言い訳などしない。


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そして、だから我々は二・一四を決断した。

 我々のはかなき、そして無責任で中途半端な夢は二・七早朝、確実に打ちのめされた。だからこそ、その後の一週間は死者の叫びと、被災した仲間の叫びを受け止め、向き合い、現実の新宿西口地下の中、現実可能なより現実的な判断を優先させた。
 すなわち生き残った仲間がよりよく生きるということに。そして、新宿闘争四年間一度も発揮してこれなかった始めての大胆な意識性を発揮した。これが死者へのせめてもの償いであり、レクイエムだと信じ、自らの迷いを、焼けただれた二・七の光景にうちのめさせ、自らを奮いたたせ…。
 それを連絡会の路線転換だと言うのなら勝手に言えばよい。我々は陳腐な批判に耐えられるだけの思想的な営為をこの一週間の内に鍛え、そして主体的に我々の決断を選択したのだ。
 一人でも多くの仲間の命を救うために。
 この悲劇の打ちのめされ続けることよりも、この悲劇をバネに一人でも多くの仲間が少しでもよりよく生きられることを。
 自主退去とは尻尾をまいて逃げることでも、政治的な妥協の産物でもない。野宿地を奴等に明け渡したとしても、そこに生きてきた、そして残された仲間が、これからこれまで以上のよりよく生きていける条件を作りだして行く「ダンボール村」からの発展の道筋であり、自主的に西口地下から移転した転進である。そして我々はそれを一糸乱れることなくやり切った。

 「我々には未来を語り、未来に責任を持つことが必要だ。過渡期としての路上からの発展の経路を我々は我々の言葉で語り始めなければならないし、そのためのたたかいに立ちあがらなければならない。それは、行政や学者が語るのではなく、我々運動体こそが責任を持って語れることであろう。
 越年・越冬闘争がスケジュール闘争としてこなして終わったなら、我々は同じことを繰り返さざるを得ない。本越冬以降のたたかいが消耗戦のたたかいとならないためにも、我々はこの地下の路上から天空に手を差し延べていきたい。」
 第四回新宿越年越冬闘争支援連帯集会基調に我々はこう書き、そして今回の惨劇の渦中でそれを大胆に実践した。仲間の命は仲間で守る運動体である我々は、仲間の命はどんなことがあってでも守り、生きる運動体でなければならない。そこに、その一点にはどんな政治的な理念も無用だ。我々は運動のために運動はやらない。我々は仲間の命をただ守るために運動をやる。それが、それのみが新宿連絡会の仲間にとっての存在理由である。必要とあればメンツも捨てる。必要とあらばプライドも捨てる。必要とあれば悪魔とでも手を結ぶ。それが、我々の連絡会であり、我々の原則性である。
 生きるための運動体が仲間に死を強制した事実を直視するなれば、我々には仲間の魂を昇華させ、残った仲間が転進するための決断が必要であった。二・七の運動的な総括点として二・一四が準備された。あまりにも急転直下の決断だっただけに説明不足な点は多々あっただろうが、西口地下広場に残った仲間は言葉ではなく、違ったもので我々の決断を理解してくれた。

 我々の判断は決して間違ってはいなかった。我々を批判する者は、亡くなった仲間の顔も知らず、ここに共に生きてこず、そしてあの惨劇とその後の一週間を共にしなかった外部の者だけである。

 あの決断は、二・七の焼け跡の前にいた者ならば誰しも感ずることを運動体がしたまでの事であった。

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 二・一四が終止符なれば、我々はその地平から再び出発する。ここで生きてきたからこそ、我々は更によりよく生き抜くための歩みを踏み出す。過去四年の新宿闘争は二・一四に全て従属する。その成果も限界も含め。二・一四にもはや論議の余地はない。我々は二・一四を決断し、鎮魂の旅路を歩み始めた。この地平を認めない者は今後の新宿連絡会には無用である。

 我々は仲間がよりよく生きるために行政支援を仰ぎ、利用する手段を取った。仲間を野宿のまま固定し、居住拠点を移すだけの手段を取らなかった。何故ならその条件が昨年来のたたかいの中に明確にあったからである。

 我々は、昨年十・一三、排除を前提としない都福祉局の自立支援事業を容認すると同時に寮内工作を開始し、その主体的なたたかいを支えると共に、十・一三入寮希望者団体交渉、一二・九、二・四と入寮者団体交渉を重ね、自立支援事業の改善と拡充を求めるたたかいを行なってきた。

「我々は収容プランだけを排除から引きはがし、それを利用者の利益にたって有効に使う道を選んだのである」(第四回越冬基調)

 そして、一月二八日付け都・福祉局に対する「自立支援事業の事業内容に関し、更なる改善を求める申し入れ書」においては、
「付け加えるならこの事業の拡充について、上記就労問題を整理した上で、新宿においては百名規模の専用施設の整備が早急に求められていると思います。各々のプライバシーが守られ、ある程度の自主性が保障される非管理型(共同管理的な発想における)の施設ならば我々は大いに賛意を示します」と、自立支援事業の専用施設、すなわち自立支援センターの設置を容認する立場を表明している。

 我々は我々を当事者団体として認め「対話」を前提に開始された都福祉局による自立支援事業を「ほんの一歩」と評価し、寮内闘争と現場要求とを結合させながら事業改善を求めるたたかいを進め、我々の本来的な要求であった仮設住宅、軽作業労働保障を、まず、この事業の内部において発想化させ、より近い形で実現させていく闘争方針を採用した。この過程で都福祉局との論議を軸とした信頼関係は飛躍的に形成されていたのである。自立支援事業の容認という我々にとってみてもの試行は、とりわけさくら寮などの仲間の主体的な立上がりに規定され、その方向性は専用施設の設置へと向かっていった。すなわち、旧来我々が批判し続けてきた隔離収容型で排除の受け皿となる短期収容施設とは位相を異にする施設は、寮内の仲間が実態的に分断されないことを前提にすれば、我々にとっても、実現可能であり、しかも、現場要求的には野宿の仲間が野宿を脱し生きる手段獲得のための事業として必要不可欠な面をもつに至っていた。
 我々は既に自立支援センター設置の要求まで出していた。ならば、今回の火災において被災者救援の要求の軸となるのは、当然ながらその施設の前倒し設置に他ならない。むろん、それが全ての要求ではないにせよ、現実可能な判断をするなれば、二・七火災を受け、西口地下広場からの移転先は自立支援センターへ!しか考えられない。旧来の短期宿泊援護などこの時点においては条件にすらならない事は行政もまた認識していた(もしくは力関係において認識させていた)のである。そしてそのための協議に全力を賭し、結果として自立支援事業を前提としたなぎさ寮への無期限入寮、そして四月以降新宿区内二か所の自立支援センター暫定実施を、とりわけ新宿区を動かすことによって成功させ、なぎさ寮から区内の自立支援センターへという被災移転者の対策枠を獲得し、百七十二名の仲間が安心してなぎさ寮に移転した。もちろん、なぎさ寮内では生活改善要求などのたたかいが、すぐさま開始されている。

 結果的に野宿地を奪われたと主張する者は、深夜西口地下を回ってみたまえ。そこにはダンボールハウスこそないが、かつてのように百名規模で移動層の仲間が仲間のつながりを頼りに野宿をしている姿に出会うだろう。ダンボールハウスは居住への権利の第一歩であるとかつて規定したことがあるが、ならば、ダンボールハウスを作ることを目的化するのではなく、ダンボールハウスからの発展の経路を権利として勝ち取ることにこそ、我々運動体は目指さなくてはならないのではないか。事実、自立支援事業で入寮した仲間はそのような権利意識をもち、行政支援を利用しながら安定した就労と居住を勝ち取り、更に後に続く仲間のためにと我々の様々な活動に参加してくれている。そのような現実的な希望がある限り、ダンボールハウスは奪われたのではなく、解消しただけの話しであり、我々は運動体の責務としてダンボールハウスに住んでいた仲間の権利を仲間と共に勝ち取って行ったのである。
 無論、自立支援センターが全てであるとは我々は思っていない。が、生活保護法との整合性を保障する事業としての可能性はこの中には十分孕まれていると考えている。否、行政にまかせるのではなく、主体的にそのような事業へと改善していかなければならないだけの話しである。一方で施設入所を拒み、野宿での移転という選択をなした仲間の存在を無視することは当然出来ない。野宿のまま自力で生き抜いて行こうとする仲間の能動性は我々は従前通り認め続け、学び続けなければならないし、その発展の経路もまた具体的に作りださなければならない。

 「ダンボール村」に閉塞していた我々は、新宿駅地下、地上、中央公園、戸山公園などで撤去に抗し生き抜いている仲間と、再び新たに出会う契機を自ら作り出して行った。

 新宿の仲間とのつながりは、場所は違えど大きく広がった。四月から多くの仲間は新宿に戻ってくる。野宿をしててもしていなくても共にここで生きてきた仲間は仲間だ。あたたかくて、でっかい団結の希望が、俺たちにもようやく見えてきた。
 亡くなった仲間にそれを笑顔で報告できる日まで…。

(了)


1998年3月「ダンボール村通信特別号」