堀内(元東京都福祉局)参事が亡くなったとの報をとある人から頂いた。
 「あれからちょうど、10年ですね」
 その言葉に、昨日の事のよう鮮明に思い浮かぶあの事故の歳月をようやく知った。
 
 1998年、2月、冬季オリンピックが長野で開催され、その開会日の早朝だった。

 堀内参事は連絡会を古くから知る者にとっては武山(元新宿区生活福祉)課長と並ぶ伝説的な役人であった。
 路上生活者対策の流れ、そして路上支援活動の流れを劇的に変えた、そして、それがなければ、恐らく今のこの状態はより一層最悪化していただろうと思う程、この小さな都市問題の歴史を変えた人物である。今、このような役人が少なくなったのは、まさに不幸とも言える。

 1997年初夏頃から、前年に起こった(起こした?)強制排除をめぐる一連の騒動を終息させようと云う気運が都庁、そして連絡会から持ち上がった。時はまだ青島(この無責任男も死んじまったが)都政の頃、都庁サイドは西口地下広場のダンボール村を引き続き一掃しようと、その旗を降ろさず、そして連絡会サイドも「撤去反対」「徹底抗戦」の旗を降ろさずいけいけどんどんの頃の裏話である。
 都庁サイドから都職労幹部(この方もお亡くなりになったが)を通じ、話し合いの提案がなされた。そして、その場に居合わせたのが堀内参事であった。
 「あれ(1・24強制排除)は間違いでした。」
 堀内参事の言葉を聞き、一瞬、このお役人、大丈夫なのかな?と思った。当時、係争中の事件でもあった。もちろん、都庁の公式見解は「あれは、正しかった」である。それを非公式な折衝の席とは云え、真っ向から否定したのである。
 その真摯な言葉から、互いの信頼関係が始まった。

 今は全国的に実施されている自立支援の仕組みは、97年の暫定実施が始まりである。この募集のため街頭相談がようやく実施され、その時ようやく連絡会は都との交渉団体として認められ、大衆交渉の場で都の姿勢が仲間たちに認めれら、その場で募集が実施されると云う、極めてめずらしい協力関係がその時から始まった。その時は施設開設が進まず、救世軍の宿泊所「新光館」を宿泊場所としての暫定実施であった。おもしろい事に、この時暫定実施に参加したメンバーは今でも深い関係にあり、運動の勢いと、人の育成はやはり同時進行なのだと思う。

 そんな中、西口地下広場から火があがった。放火とも失火とも言われ、いまだ原因は不明である。けれども、結果は、ダンボールの素材的弱さと、村としての脆弱性は、阿鼻叫喚、地獄絵を描いた。4名のかけがいのない仲間が亡くなった。
日々、顔を合わせ、悩みを聞き、支え合った来た仲間を。

 その日の朝、ぼう然自失の私たちを励ましてくれたのも、堀内参事であった。
 「これはなんとかしなければ…」
 彼は、そう云うや、避難場所として「なぎさ寮」(当時の)をまさに職権で空けてくれた。私たちが被災者に券を配り、そして引率し、入寮させる緊急の仕組みを作ってくれたのもたのも堀内参事であった。異例中の異例である。
 緊急事態に即応できる器か否かで、人の評価は決まる。

 他の反対一色の支援団体から轟々の非難を受け、その後の分裂を準備していった西口地下広場からの「自主退去」の選択は、そんな中から生まれた。200名近い仲間を退去させる、今でも信じられない大事業を私たちは1週間で済ませた。まるで何かに取り憑かれたように。
 あの日からの1週間は、それこそ昨日のような鮮明な記憶である。ありとあらゆる事をした。おそらくその詳細は明らかにされないだろう。10年経っても、あの時の出来事は活字には出来ない。墓場にまで持って行くのだろう。そんな、特定の人だけが大事に思う歴史があっても良いのかも知れない。

 この出来事を共有する人は次々に鬼門に入る。
 良く言われた。「特定の役人を美化するのは危険だ」と。
 けれど、同志と本当に呼べる人は立場を超えて現れる。

 無念でならない。

 そして、ご冥福を祈りたい。

 堀内参事は、通勤路であったのかどうかは知らないが、その後も中央公園で良く出会った。そしてその度に「こうすべき」「ああすべき」「ここを突くべき」とアドバイスを頂いた。電話がかかってくる事もあった。
 その後、退職し、民間会社に転職したと聞いた。あの器は役所と言う硬直した箱庭には馴染まなかったのかも知れない。

 真摯な者こそ不幸になる。この世の不条理を感じる。

(笠井)

 

              98年西口地下広場火災から10年