連絡会は体で勝負。
 得意技は集会、デモ、押しかけ、そして交渉。
 毎年5月1日のメーデー集会・交渉を始めとして、年がら年中、新宿区、東京都、国、と、どこでもかまわず「屋根と仕事につながる対策」を求めて行動をしています。時には「圧力団体」と怖がられることも。けど、野宿者の対策に野宿者が声を出して何が悪いと、今日も元気よくデモ、デモ、デモ。

 役所に何らかの要求をする運動団体には交渉がつきものである。
 交渉という「舞台」はいかに舌を回して相手を撹乱させるのかという技術と、努力、そしてはったり、これが物を言う。もちろん妥協も必要だし、政治力も問われてしまう。
 かつての新宿連絡会の交渉は力まかせ、破れかぶれの「それ行け交渉」。なにせ相手が交渉相手と認めてくれないのだから、仕方がない。連絡会、かつては都庁舎に乱入する事、数限りなし。鈴木都知事時代、青島都知事時代は「野宿者団体となんか交渉しないぞ」と東京都は一生懸命頑張った。福祉局とか建設局のロビー扉には「かんぬき」が用意されており、仲間が交渉のため都庁に入るや否や、一般客も閉め出し、ガラス戸を閉め切り、おまけに「かんぬき」をかけ、職員がピケを張る。そんな扱いをするものだから、都庁舎内でデモはするは、窓ガラスを蹴飛ばすは、しまいにゃガラス戸を割って乱入するは、新宿署が逆に乱入して逮捕者が出るはと、新都庁舎始まって以来の「大乱闘」を繰り広げた。
 もちろん、これは本来の交渉の在り方ではない。まずは交渉団体として認めさせる実力行使。
 昔話だから許して下さいとまでは言わないものの、この国のお役所というのは、たいがいこんなものである。
 こんな事を繰り返し4年程たって、ようやく東京都も交渉相手として認知して下さるようになり、我等に取っては歴史的な97年10月の「交渉」と言う名の暫定自立支援事業「説明会」が開催され、理性をもっての交渉が出来るようになったのは、幸いな事であった。「交渉拒否」から路線を転換した福祉局堀内参事(当時、今はもう退職してしまわれたが)は先見の明があったと言うべきであろう。
 以降、団体交渉、代表交渉とその時々の交渉課題に応じて平和的、理性的な交渉が続いている。
 新宿区との交渉経緯もこれまたおかしく、新宿福祉は「かんぬき」をかける事が出来ないオープンスペース。だからこちとら好き勝手放題、交渉のたびにロビーを占拠。区長室乱入までやりたい放題。仕方がなく新宿区は会議室まで取ってくれて「交渉」の場を設定してくれたのだが、これまた「大混乱」の中、中途で「中断」。もちろんその後も「圧力団体」などと陰口を叩かれながら新宿区とは理性的な交渉を続けてはいる。
 おどかし、すかしと、お役所相手の交渉は疲れるばかりではあるが、こればかしは仲間の「要求貫徹」のために必要不可欠な行動。頭脳を研ぎすませ、路上生活者対策や生活保護法の学習に学習を重ね、ついでに、いざと言う時の体力も貯え、連絡会の交渉団は今日も発声練習をしながら、お役所相手のたたかいに備えているのである。

(連絡会NEWS26号より)